「定量」
2017.07.09
行きつけのバーのマスターからこんな話を聞いた。
学生の頃、森永の「ムーンライト」の箱詰めをするアルバイトをしたことがあるという話。
昔はマリーもチョイスもムーンライトも今のような個ではなくて、プラスチックトレイに並べられて入っていた。
そして、もちろん工場生産とはいえ完全なオートメーションではなく、随所に「人力」での作業が行われていた。
工場は夜も昼もなく稼働し、そこで働く者はラインに沿って焼き上がってくるムーンライトをトレイに詰めていく。
工場内には甘い匂いが立ちこめ、最初に「いくらでも好きなだけ食べていい」と言われたこともあり、初めのうちこそ喜んでそのバイトに臨んだらしい。
社員の人たちは喜ぶ学生を前ににやりと笑っていた。
深夜帯のバイトだったので時給もたいそう良かったそうな。
私は「へえ」と思い、それを聞いていたが、マスターは険しい顔でこう続けた。
「だから、ムーンライトはもう一生、二度と食べたくない」と。
深夜のバイトというのはどうしたって眠くなる。時刻は3時を回る頃だろうか。それは容赦なく、バイト全員に降り注ぐ。
しかし、工場は動き続け、毎分ごとに焼き上がったムーンライトがベルトコンベアに乗って静かに押し寄せてくる。
休む間もなく。手を止めることは一切許されない。止めたが最後、ムーンライトが溢れかえってしまうのだから。
とにかく自らも機械の一部となってムーンライトを詰める。
アルバイトは交替で休憩があり、その間だけはしばし手を休める。そしてまたムーンライトとの静かな戦いに復帰する。
私は想像する。深夜の、静寂に満たされた工場で、絶え間なく焼かれる甘い香りを放つムーンライトを。一心不乱になってムーンライトと対峙する若者たちの姿を。
マスターはわずか一週間ばかりでバイトを辞めた。
「人間の仕事じゃない」
そしてこうも言った。
「ムーンライトは一生分食べた」
ちなみに、焼きたてのまだ温かいムーンライトは「ものすごく美味しい」らしい。
この話しを聞いて私はふと「ああ、やはり、人生には「定量」というものがあるのだなあ」と思った。
「定量」それは一人の人間がある特定の食品を一生のうちに食べることのできるキャパシティ。その限界。
私のうちではあまり鮪は食べない。
というのも、父は若い頃マグロ船のコックとして働いていたことがあり、インド洋を中心として一年ばかり乗船していた。
船というのは当然だが水も食糧も制限される。肉や野菜、保存のきく缶詰類、調味料にいたるまでコックは食材を大切かつ慎重に使い、さらに工夫して三食を用意する。
自給できるものは大歓迎で、だから魚はとにかく毎日食べる。その魚の中にマグロが含まれないはずがない。
だから。父はもうトロだの大トロだの、ほほ肉だのには見向きもしない。
それはおそらく船に乗っている間に父の人生における鮪の「定量」がきてしまったということなのだろう。
私自身にも思い当たるふしがある。
私の人生においてすでに「定量」を迎えたなと思うのは、それは「スプライト」だ。
若い頃、私はアメリカを旅したことがある。もともと清涼飲料水を飲まないのだが、彼の国では飲み物の選択肢がコーラを代表として清涼飲料水より他にほとんどない。
アメリカも全土のどこでもが都会というわけではなくて、むしろ圧倒的に「田舎」の方が占める割合が多く、日本のようにコンビニがどこにでもあっていつでも欲しいものが手に入るというわけではない。
ましてや身一つの旅の空では飲み物一つ手に入れるのも困難を極める場合がある。
旅先でのホットドッグやハンバーガー、ピザやタコス、パスタやステーキなどのいかにもアメリカ的な食事をとる時、私が選ぶことのできる飲み物といえば、いつも「スプライト」だった。
コーラよりまだもう少し甘くないというか、そりゃあ、もちろんスプライトだって充分に甘いのだけれども、コーラと比べるとわずかに飲み口はあっさりしている(気がする)。
お茶が飲みたい。水が飲みたい。甘くないものが飲みたい。特に食事時には。しかしそれは望むべくもないのだ。
時にはコーヒーやビールの場合もあったけれども、それでもやっぱり滞在中に私が一番発した英語といえば、
「Can IGet aSPRITE?」(スプライトください)
であることに間違いはないだろう。
例えばアルコールを大量に摂取して、やめられない人。毎晩のようにラーメンを食す人。大食いで、グルマンで、好きなものはいくら食べても飽きることなく食べ続けられる人。定量がいつまでもこない人たち。
そういう人には定量がないのではなく、恐らく人よりキャパシティが大きいというべきなのだろう。
だから、たぶん、それは各人の胃袋の大きさとそれぞれの定量の違いなのだと思う。
あれから一〇年以上の月日がたつ。以来、私はスプライトを一度も飲んでいない。
私の人生におけるスプライトの「定量」が、あのわずか数カ月の間に知らぬうちに限界に達してしまったのだ。
なにせ清涼飲料水を飲む習慣がないので(前述にもあるが、元来あまり好きではないのだ)、この先もスプライトを飲むことはないかもしれないが、氷のたくさん入ったグラスにしゅわしゅわと泡の弾けるスプライトの、あの涼やかな空気は私にとって愛すべき思い出の飲み物である。