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お酒を飲むところ

世の中が不景気になると一番に感じるのがお酒の消費が減ることだ。近年の不景気で夜の街には活気がないと思う。

 私は夜の街と密接な関係を持って生きてきたので、この変化を寂しい気持ちで見ている。

今のように若い世代がお酒を飲まないだとか、外食や夜遊びにお金を使わなくなっただとかいう時代がくるもっと前。

両親が営むレストランは今よりずっと営業時間が長く、併設されたバーには深夜を越えても尚多くのお客さんがグラスを傾けていた。

 カウンターの棚にはぎっしりとお酒の瓶が並び、阪神大震災の折りには無論すべての酒瓶が棚から落ちて割れたわけだが、営業再開時にそれをすべて買い直したらその額面が百万円を超えたというから、その数の豊富さと当時の様子を窺い知ることができる。

 私が店の厨房で皿洗いや下働きを始めたのは13歳。中学一年生だった。土日は必ず夕方から店に行き深夜まで働いて、閉店後に両親と車で帰宅するのが普通だった。

 夜遅くなるほどカウンターは賑やかになり父も母も、当時雇っていた学生のアルバイトもみなお客さんの相手に大忙しだった。

 その一方で私は火をおとした厨房で宿題をやったり、本を読んだりして閉店を待っていた。

 時々、そういう子供がいることを知る常連客が酔っぱらって、おもしろがって厨房を覗きに来ては、赤い顔で何かいろいろと話しかけにきた。

 生家が商売をしているといううちの子供には多かれ少なかれ、その商いを年齢を問わず手伝わされるのが珍しくなく、私の周囲にもそういう子が幾人かはいた。

しかし私が置かれた深夜に及ぶような環境は決して教育的ではないし、両親も良かれとは思っていなかったので、私はお客さんの前に姿を見せてはならないと申し渡されていた。

無論やむない場合もあったが、基本的にはどれだけ大人たちが親しげな口をきいてくれたとしても大人と子供の境界線ははっきりと敷かれていて、それは絶対に越えてはならないものとされていた。それが最も厳しく守られたのは、「バー」の時間だった。

 父の経営する二軒目の店としてレストランが御影に開店して数年、軌道に乗せようと必死だったのだろう。父はまったく家に帰ってこない生活であった。いや、帰ってきてはいたのかもしれないが、前述のように営業時間が深夜におよんでいたので家族とはすれ違いの生活だった。

あの頃、母はわざわざ子供たちを日曜の昼間に「お父さんに会いに」連れて行ったぐらいなので、今思い出してみても確かに10歳から13歳ぐらいまでの三年間の父の記憶がほとんどない。

 しかし、私が中学生になり、店の厨房に出入りするようになった頃。父が休みの日に突然「ちょっと出かけるからついて来い」と私を連れて夜の三宮へ行ったことがある。

 どこへ行くのか尋ねても父は答えなかった。不在がちな父ではあったが、当時まだ30代の後半だったろうか、所謂世間の「お父さん」と違ってリベラルな人だったので、その頃の私に父は怖い人ではなかったし、時々こっそりお小遣いをくれたりするので、どちらかというといつも小言ばかり言う母よりも好きだった。

 父は三宮に来ると、小さなビルの二階にある店に入った。

 そこは一軒のバーだった。重厚なカウンターに、薄暗い照明。立ち並ぶ酒瓶とよく磨かれたグラス。カウンターの中にいたネクタイのバーテンダーは父と親しげにいくつか言葉を交わした。私達の他にお客はいなかった。

 あれほど大人と子供の境界線を徹底的に敷き「分をわきまえる」ことを教えてきたのに、なぜ父は私を「大人の場所」であるバーへ連れて行ったのだろう。

 父が他にお客がいないであろう時刻を狙って行ったことは理解できた。そこが絶対に子供が来ていい場所ではないということ。でも、だからこそ本当の大人たちだけに出入りを許される場であるということが。

私はあてがい扶持のカクテルを飲ませてもらい、味も分からぬまま、すぐに店を後にした。父はそこでもやはり、初老の柔和な表情のバーテンダー氏と親しく口をきくことを許さなかった。

その店を皮きりにして、私は以後時々ではあるが父に外国人客ばかりのアイリッシュ・パプ、住宅街の隠れ家みたいな洒落たバー、父の若い頃からの友人の店にも連れて行ってもらうことがあった。その都度、母には内緒にしておくようにと言われた。

 カウンターに座り、父と何を話したのかは覚えていない。ただ、物珍しく、煌びやかな夢のような「大人の世界」が広がっていたただけで、何を飲ませてもらったかも覚えてはいない。

 父が初めて連れて行ってくれたバーは、神戸の名店、先代の店主がまだお元気だった頃の「サヴォイ」だった。

 今年私は41歳になる。

今までで一番「お酒を飲んだ」と思われる時期はやはり20代の前半から半ばにかけてだろう。

 働き始めて自由になるお金を握り、家に一円もいれるでなし好き放題に使っていた頃。私はあちこちのバーの扉を開けた。連れはいなくて、いつも一人だった。

 思えばあの頃のバーにはまっとうな大人が多かったのだろう。20歳やそこらの生意気な小娘を、とりあえずは迎え入れてくれる懐の深さのようなものがあった。と同時に、やはりどこへ行っても必ずといっていいほど若さというものは未熟で値のつかない果実のようなもので、受け入れては貰えるもののどこか本当には相手にされていないような感触があったと思う。

最近は若さというものにずいぶんと商品価値があるようだが、私が若かった頃は「若い」ということほど恥ずかしいことはなかった。私はいつも早く大人になりたかったし、彼らと対等の立場になってみたかった。それが私をバーへと駆り立てたのかもしれない。懸命に背伸びをして、何軒ものバーに通った。

たった一人で、初めての店へ行くということ。それを怖いと思ったことはない。特にバーに関しては皆無と言っていい。

 無論、私が恐れ知らずの無知蒙昧だったからと言えなくもないのだろうけれど、しかし、それよりもバーというものが身近にあったからだと思う。実際、私はバーでお酒を飲むことはずいぶん早くに覚えたのに、チェーンの居酒屋のようなところに行ったのはもっと後になってからで、そちらの方が自分にとっては遠い世界のものだった。

 大学生がコンパやサークルの飲み会で居酒屋に行ったりするのを時に羨ましく眺めていたのも、その頃のことだ。

同じ年頃の子が居酒屋で大騒ぎしたり、泥酔して路上で介抱されたりしている時、私はバーにいて、そこで出会うさまざまな職業の大人たちに笑われたり呆れられたり、時には優しい小言を頂いたりしていた。

「どれだけ大人たちが親しげな口をきいてくれたとしても大人と子供の境界線ははっきりと敷かれていて、それは絶対に越えてはならないもの」は両親の店だけでなく、彼らの言葉だけでなく、どこのバーでもそうなのだと知ったのもその頃だった。

時々、思う。自分にとってバーというのは、親しい仲間と楽しくお酒を飲む場というだけでなく、もしかしたら「マイホーム」のようなものなのかもしれない、と。

 生活の中にバーがあり、そこにいる大人たちの中で育ったことで私はバーという場所を居間の延長もしくは別邸のように感じ、今はもう自分も大人になったのにそこに行けばまだ自分が子供のような気がして、懐かしいような、甘えたくなるような気持ちがどこかにあるのかもしれない。

 年はとったれども子供のように心もとなく、不安で揺れ動くような、時としてせつない痛みを携えて、すがりつくような気持ちで、しかもそれを無条件に受け止めてほしくてバーの扉を開ける。

あれほど大人になりたいと願って、憧憬の眼差しを持って踏み入れた場所に、今は郷愁を抱え、子供に返りたいような気持で通っているのかもしれない。

父と行った店に私が成長して一人で出かけたことは一度もない。ないままに、名店と呼ばれた店たちは永遠に扉を閉ざしてしまった。若かった父と子供の自分の並んだ記憶と、憧れだけを残して。


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