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永遠に共に

先日、酒席で同年代の独身男性がこんなことを言っていた。

「一体自分に合う嫁さんってどんな人なんだろう」

 と。

 私がまず驚いたのは彼が初めから「嫁さん」を前提にしていて、恋愛関係であるところの「カノジョ」ではないことだった。

 無論、お見合い結婚を考えているのなら不自然な言葉ではないのだけれども。

 それでは「合う」とはどういう意味だろうか。

 何が合えば理想の嫁さん足り得るのだろうか。

 近頃またしても独身30代女性の悲哀というか嘆きというか、まあ、仕事や恋愛や加齢による不安などをコミカルに描いたドラマが流行っている。

 ドラマは世相を反映しているというが、この内容が今の独身女性の葛藤や希望を表わしているのだとしたら何か空恐ろしいような気がする。

 なぜ、彼女たちはそんなにも結婚したいのだろうか?

 恋愛や結婚は男女間で起こるロマンチックで美しく、そして非常にプライベートなものだ。

恋愛の過程で起こる、人の心に及ぼす化学反応のようなもの。私はそれをこよなく愛している。恋愛は、たぶん、多くの小説や映画に取り沙汰されるように「楽しい」ものだと思う。そして楽しい分だけ終わりを迎える時の愁嘆は場合によっては筆舌に尽しがたいものがある。そういう急転直下のジェットコースターに乗ったような気持ちを味わえることも、有る意味恋愛の醍醐味と言えるのではないだろうか。

 しかし、である。恋愛も結婚も二人だけの世界のものであって、それが幸福か不幸かなんてことは誰にも知りえないし、また、誰にもジャッジできないはずなのだ。

 にも関わらずまるで恋愛をしなければ、結婚をしなければあたかも幸福ではないかのように言うのは、一つの「強迫観念」ではないだろうか。

 30代で独身であることの何がそんなにも恐ろしいのだろう?

 私は40代に突入しているが、30代になった時に結婚していない自分を不安に感じたり、悲しくなったりしたことはなかった。

 老後の不安というのはまた全然別な話だと思う。

 なぜ人は一人で生きて行くということを不幸なように感じるのだろう。

 これは前述したように「幸福」というものに「強迫」されているからだと思う。

 現代社会の一つの規範として、ひな形として、大学を卒業してそこそこ名の知れた商社に就職して、キャリアを積むと共に素敵な恋人と恋愛を楽しみ、その果てに結婚し、女性ならば出産をし、育児休暇の後に職場に復帰し、また自分のキャリアも積みながら家事に育児に奮闘し、男性ならばばりばり働いて高収入を得て……。それが「成功例」のプロトタイプとして連綿と続いており、まるで変わる気配もない。

 こんなにも世界が情報化の一途を辿り、価値観が多様化し、さまざまな生き方が容認され、クローズアップされ、これまでアウトローだった生き方でさえも賞賛される対象になったりしているのに。それでも定型の幸福から逸脱することを多くの人が恐れるという、不可思議な現象。

 そもそも、なぜ人はそんなにも幸せでなければならないのだろうか?

 完璧な人生などあるはずもない。生まれてこの方一度も幸福を感じたことがない人がいるとすれば、それは真の不幸かもしてないが、それだって巻き返すチャンスがゼロではない。誰だって、幸福と不幸を交互に味わいつつ生きている。

 私は「独身女性の悩み」みたいなものを描いたドラマや、ネットのニュースを見るにつけ、なぜ現状から幸福を見出せないのか? という方が不思議なのだ。

 それはなにも向上心や貪欲さを、夢を捨てろということでは、ない。

 「今」を楽しく生きることも大事だと思うだけで、なぜ結婚しないことが不幸に感じるのかが理解できない。

 さて冒頭で書いた「自分に合う嫁さん」だが、「相性」というのは確かに存在すると思う。

 「合う」という言葉を使うなら、例えば「趣味」や「価値観」「嗜好」も、パートナーになる人と一致していると楽しみは2倍になるかもしれない。

 が、私は十年近い交際期間を経て、現在結婚六年目だが、主人と「合う」かどうかなど一度たりとも考えたことは、ない。

 食事の好みやお金に対する価値観、道徳などについては双方の考え方が一致していないと揉める原因にもなるので「合った」ほうがいいとは、思う。その点については主人と「合っている」と思う。

 が、これは偶然の一致であって、始めから「合っている」人を選んだわけではない。

 もし合っていなければ恋愛は続かないかもしれないし、結婚まで至らないかも、しれない。それは分からない。何が合わなくともお互いを好きだと思えば、喧嘩しもってでもやっていくのかもしれない。そういう人もいると思う。

私と主人もすべての点において「合っている」わけではない。しかし合わないことを理由に喧嘩をすることは、ない。そういう事はコミュニケーションを持って譲歩なり解決することが可能だと思うからだ。

そう考えると「合う」とか「合わない」なんてことは実は瑣末な問題なのかも、しれない。

 だから私は「合う」とか「合わない」なんてことは考えなくてもいいと思う。

 どんな人が嫁さんになってくれるのかなという想像は大いに楽しむべきだと思うが、「自分に合う嫁さん」について考えるのはちょっと傲慢ではないだろうか?

 こんなことを言うと独身の人たちから非難されるかもしれないが、私は言ってあげたい。

 現状に何らかに不満や不安を持ち、日々を持て余し、結婚をしたいと思う人々よ。結婚と幸福を結びつけるのはおよしなさい、と。

 結婚したら幸福になれるという図式はもう前時代の遺物だ。

 あんたは結婚して幸せだろうと言われると、まあ、否定はしない。現在の私は結婚によって不幸になってはいない。しかし、私は幸せになる為に結婚したのでは、ない。

 私自身は結婚というものは人生における一現象に過ぎないと思っている。結婚は「婚姻制度」というものであり、私にとっては恋愛の延長戦上に存在しているだけであって、私は今も主人と「恋愛をしている」と考えている。また、そうでなければならない、とも。

 自分にどんな人が合うか。どんな人と結婚したらいいのか。

尋ねられたら私は言う。

「自分を好きでいてくれる人を選びなさい。そして自分が好きで居続けられる相手を見つけなさい」

 永遠を誓うのは、パートナーシップを守ることについてではない。自身の情熱を燃やし続けることを、誓うのだ。

 結婚や恋愛を中心に置いて、成功や幸福を測るのはそろそろやめにしてもらいたいものだ。


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